西南女学院大学

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KJ カーペンター:栄養学小史 その二(1885ー1912)

A Short History of Nutrition:Part 2 (1885 - 1912)
Kenneth J. Carpenter
(Department of Nutritional Sciences, University of California, Barkeley, CA)
©2003 The American Society for Nutritional Sciences J.Nutr. 133: 975 - 984
リンク:free full original article on Internet (原論文)

これは栄養科学の歴史についての4編の招待論文の2番目の論文である。
1番目の論文はThe Journal of Nutritionの2003年3月に刊行された(7)。

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はじめに

1885年以前、ほとんどすべての栄養学研究は西ヨーロッパで行われ、大部分はタンパク質またはエネルギーの要求に関連していた。この方向は1880年代も続いたが、次の25年には世界のもっと広い部分で重要な新しい方向の仕事がなされ、栄養要求について我々の理解は長期の観点で広いものになった。

タンパク質の研究は続く

この頃までアメリカでは栄養学についての重要な研究はほとんど行われていなかった。アトウォーター(Wilbur Atwater)はこの状態を変えようと決心していた。彼は1844年にニューイングランドで生まれ、1885年にはウェスリアン大学の化学の教授になった。彼はミュンヘンに行って、リービッヒの愛弟子であるフォイト(Carl Voit)の研究室で使われていた窒素出納を数月にわたって研究した。フォイトは次のように信じていた。すなわち、充分の収入があって好きな食事を摂ることができるならば、健康で生産的であるために充分なタンパク質を含む食事を直感的に選ぶことができる、と。彼は中程度の強さの労働をしている平均的なドイツの労働者は毎日118グラムのタンパク質を摂取していると推定し、これが彼の標準となった(1)。アトウォーターはアメリカの労働者は一般に高収入でもっと食べていることを知り、彼らはより激しく働くので、標準を毎日125グラムとみなした(2)。

後になってみると、タンパク質のようにかなり高価なものを実際に大量に摂取する必要があるかどうか質問してはならなかったことが、皮肉である。どうやら彼はドイツの栄養学者を権威者とみなし、自分は新米と思っていたようである。フォイトはタンパク質の摂取量がずっと少ない菜食主義者は窒素平衡を保ち得るが、彼らは "自分自身を不利な状態に置いている" と考えていた(3)。 アメリカのグループは、タンパク質が直接に筋収縮の燃料に使われないとしても、 "努力しようとする" ための神経エネルギーに使われると考えていた(4)。

この時期におけるアトウォーターの仕事の主な点は食物を近似システム(proximate system)(窒素、線維、灰、エーテル抽出物、水分、"差分による炭水化物" )によって測定し、この値を使ってもっとも高価であるタンパク質の必要量を経済的に得るにはどうすれば良いかを、貧しい人に教えることであった(表 1)。タンパク質とエネルギーを経済的に得る観点からだけで食事を推奨することの不幸な効果は、果物や緑食野菜が無くても構わない贅沢品にすることであった。この時期に労働者家族の収入の約50%は食品の購入に使われていた。

表 1 一定金額の食品当たりのタンパク質およびエネルギー:アトウォーター(21)より再計算

食品 25 セント当たり:

全重量 タンパク質 エネルギー

lb g kcal
動物
 牡蠣 1.21 41 285
 牛肉 サーロイン 1.27 86 1120
 チーズ 1.67 213 3420
 牛肝臓 3.13 286 2095
野菜
 ジャガイモ 20 163 5900
 小麦粉パン 4.3 170 5500
 小麦粉 7.1 360 11750
 乾燥マメ 5.0 520 8070
果物
 オレンジ 2.5 7 375

タンパク質の高い標準にたいする挑戦はイェール大学の生理化学教授のチッテンデン(Russel Chittenden)によって最終的に行われた。彼自身のいわゆるリューマチ状態が、食物とくに肉の摂取を減らすことによってあるていど良くなり、タンパク質の摂取量が1日あたり40グラム(150ポンドの標準体重では48グラム相当)以上でないにもかかわらず身体活動も精神活動も完全に保たれていることに彼は感動した。

チッテンデンは低タンパク質食事について三つの対照実験を組織した。第一はチッテンデンと3人の研究者が対象となった。"標準" 体重に合わせて毎日平均62グラムのタンパク質を含む食事を摂取したが、6月のあいだ健康で窒素平衡が保たれた。第二はアメリカ陸軍の11人の兵士について行われ、毎日のタンパク質標準摂取量は61グラムであったが、健康で身体状態も良好であった(図 1)。最後の実験では7人のイェール大学運動部学生のグループが毎日64グラム(標準化)のタンパク質を摂取した。運動能力は保たれ、体調はこの実験によって良くなったと彼らは述べた(5)。

図 1 良好な身体状態を示している
    低タンパク質食試験者の写真。
    チッテンデン(5)より。

このような食事は "生理学的経済" であるとチッテンデンは推奨したが、他の人々は容易に受け入れず、繁栄している国で一般に高タンパク質食であるのは両者のあいだに重要な関係があり、短期間の実験では明らかにできないと論じた。チッテンデンは批判者たちが原因と結果を逆にしていると答えた。彼らは大量のタンパク質を摂取しているので金持ちになったのではなく、肉その他の高価なタンパク質性食事を摂取できる充分な収入になったのでそのような食事をしている、と(6)。その後の研究はすべてチッテンデンの観察を確認するものであった。

タンパク質の消化と相互変換 (目次へ)

フォイト、アトウォーター、チッテンデンの著作を通じて、すべてのタンパク質は同じ質であるという断りなしの仮定が存在していた。したがってアトウォーターは肉タンパク質をマメタンパク質で置き換えても支障がないことに疑いを持っていなかった。後になってみると驚くべきことである。何故かというと、すべてのタンパク質は共通の反応基を持つというムルダーの仮説は否定され、炭素:窒素の比さえもマメから抽出された "レグミン" と他の動物タンパク質とは違うことが報告されていたからである(7)。

19世紀の大部分の間、ムルダーの理論が潰れた後でも、栄養学の研究者は、食物から取り込まれたタンパク質はほとんどそのまま吸収され、その後で必要とあればフィブリンがアルブミンになるように若干の変化を受ける、と考えていた。しかし、消化生理学の研究者は胃壁からある物質(ペプシン)が分泌されてタンパク質をより溶け易いものに変えることを示していた。リービッヒはこれを分子の凝集物を壊すだけのことであって、それによって腸管を通り易くしている、と考えていた。数年後に膵臓は他の物質(トリプシン)を分泌し、これはペプシンで処理したタンパク質をさらに分解し、凝集をせず羊皮紙を通過できず、チロシンとロイシンを含む物質にすることが、見出された。このことについては、詳細な記載と完全な引用文献がグリーンステインとウィニツの本にあり、この本は入手容易である(8)。

この頃にチロシンとロイシンは2つの化合物として知られていた。これらは化学者がタンパク質を強酸中で沸騰させて得たもので、最初は "アミノ体" と呼ばれ、後には "アミノ酸" と呼ばれるようになった。栄養学者たちはこれらの分解産物に興味を示さなかった。何故かというと、沸騰強酸中における分解は腸管内における温和な状態で起きるものとはまったく違うと考えたからである。しかし、生体系においてアミノ酸が産物として発見されたことは有意義なことであった。とくに酸処理によって得られる種々のアミノ酸の割合がタンパク質によって異なることを、分析者たちはすでに報告していた。

歓迎されない発見を避ける方法はいつでも存在する。1895年にチッテンデンは次のように書いた。"膵臓によるタンパク質分解は、摂取した余計なタンパク質を身体が最小のエネルギー消費で取り除く方法、と考えることができる" (9)。すなわち、彼は身体が必要とするタンパク質はかなり無傷の状態で吸収され、吸収される前に分解されるのは不要な余計なタンパク質であると考えていた。1902年でもドイツの教科書は同じことを次のように書いていた。"このように完全な分解は化学ポテンシャルの浪費であり、これらの産物が再結合することはあり得ない" (10)。

しかし、ドイツとデンマークの他の研究者たちは、アミノ酸混合物が食物タンパク質の代わりをするかどうか、研究していた。大部分の研究者が得た結果によると、肉タンパク質をペプシンとトリプシンで長いあいだ処理して無傷のタンパク質が存在しないようにしたものを成犬に与えるとタンパク質の代用になるが、タンパク質の酸水解物は中和して余計な塩を除いても代用にならなかった(11)。

タンパク質のある成分は強酸処理によって破壊されることが疑われていた。それはタンパク質またはその酵素分解産物はインドール誘導体の存在を示す発色反応を与えたが、酸水解物はそのような反応を与えなかったからであった。最後に1902年にケンブリッジで研究をしていたホプキンス(F.G.Hopkins)とコール(S.W.Cole)は、酵素消化液からインドールを含むアミノ酸であるトリプトファンを分離し、これが酸水解の条件では破壊されることを示した(12)。続いて1906年にホプキンスは他の研究者とともに、ゼイン(トリプトファンを含まない)だけを唯一のタンパク質源として与えたハツカネズミは、トリプトファンをサプレメントとして与えると、長いあいだ生きることを報告した(13)。さらに1909年にアプデルハルデン(Abderhalden)は、トリプトファンを加えたタンパク質酸水解産物を成犬に与えると、窒素平衡を保ちうることを見出した(14)。生長していないので、これらの実験はトリプトファンがタンパク質合成に利用されていることを示すものではなかったが、この有機化合物がある重要な機能を持っていることを示したものである。

熱量測定(目次へ)

18世紀末のラヴォアジエとセガンの研究に続いて、フランスとドイツの学者たちは種々の状態における動物の呼吸と熱発生を測定する装置を、徐々に改良した(15,16)。ついに1894年にルーブナー(Max Rubner)はイヌの尿素生産とガス交換を同時に測定し、熱発生と代謝している食物の燃焼熱が対応していることを示した(17)。

アトウォーターの研究に戻ろう。彼もまた食品のエネルギー値に興味を持っていた。彼のグループは混合食における炭水化物、タンパク質、脂肪の代謝エネルギーを、それぞれグラム当たり4、4、9kcalであることを確立した。これらの "アトウォーター係数" はルーブナーのものと少し違うが、時の試練に堪えてきた(18)。

しかしアトウォーターの真の野心は、人間を長期間入れて熱発生を直接に測定する熱量計を作って研究を行い、栄養科学に基本的な貢献をすることであった。図 2は人間の呼吸熱量計に必要な装置を描いたものである。しかし、熱発生を同時に測定するのはさらに複雑である。これは野心的で金がかかる装置であり、アトウォーター・グループはこれを作りテストするのに5年の年月がかかった。最初の目的は、人間が発する熱は体外(すなわちin vitro)で同量の栄養物が燃えたときの熱と同じであることの確認であった。彼らはこのことをかなり正確に行うことができた(19)。

図 2 人間の呼吸熱量計。
  アトウォーターによる(15)。

次に彼らはエタノールを被験者に少しづつ与えるとエネルギー原になることを発見した(20)。酒類販売会社はこのことを宣伝に使ったので大きな問題となった。彼らのウェスリアン大学はメソジスト教会の支援を受けていて、この教会は完全禁酒を推奨し、アルコールは毒薬以外の何物でもないというパンフレットを配っていたからである。アトウォーターは万能の神は道徳の教えを真実でないことに基づくことを欲しないと答えた(21)。

アトウォーターは1904年に卒中で身体障害者になり、共同研究者たちは脂肪も炭水化物も燃えて得られるエネルギーは、少なくとも同じ能率で機械的仕事に使うことができることを示す論文の刊行を準備した(22)。その後で装置はアトウォーターの研究室から移されたが、彼の娘はグループの解散を知らずにベッドで寝ている父親のために、装置の支払いをしなければならなかったと言う悲しい物語があった。

アメリカでアトウォーターは"栄養科学の父"とみなされている。これは彼の研究成果だけではなく、アメリカ農務省における管理業務にたいする貢献である。彼は農務省において国内の多くの場所で食物利用についての研究を組織した。彼はまた農業試験所において長期間にわたる栄養の基本的な研究を行う政策を立ち上げた。この政策の成果は第3章に見ることができる。その一つはコネティカット試験場におけるオズボーン(Thomas Osborne)によるタンパク質のアミノ酸組成についての長期にわたる研究およびその栄養上の意義についてのメンデルとの協同研究である。

貧血(目次へ)

貧血、言い換えると萎黄病(chlorosis:緑の病気)は十代の若い女性によく見られる病気であった。血球数が減少し、それ以上にヘモグロビン水準の低下することが1885年までに一致した意見となった。さらに硫酸第一鉄をふくむ錠剤が有効であることも一般に認められた。しかし、この効果は鉄が腸管壁を通過しヘモグロビンに組み入れられることを示すとは一般に受け入れられなかった。第一に"動物界は硝酸カリウムとデンプンからタンパク質を作ることができないと同じように、無機鉄からヘモグロビンを作ることはできない"という理論的な反対であった(23,24)。すでに見たように植物界だけがタンパク質を作り得るというのは、19世紀の信念であった。

第二にドイツの研究者たちはイヌの肉食事に硫酸第一鉄を加えると糞中に回収された鉄は摂取したものに少なくともほぼ一致することを見出した。このような測定に本来ある変動を考えて、無機鉄は本質的に"不消化"であると彼らは結論した。ある研究の典型的な結果を表 2にまとめよう(25)。


表 2 無機鉄が利用されないことを示す出納実験(25)1

期間 食事 鉄の摂取 糞中の鉄 尿中の鉄 (正味の出納)

mg/d

0–6 肉のみ 25.0 24.5 3.2 (-2.7)
7–21 肉 + FeSO4 57.0 51.3 3.9 (+1.8)
処理による違い

+32.0 +26.8 +0.7 (+4.5)

1注:正味の出納は原論文(25)にはない

この頃には研究者たちはタンパク質の消化について多くの経験を持っていて、摂取レベルに関係しないで同じように消化されることを知っていた。したがって、他の栄養物の消化が、摂取レベルや被検動物の以前の状態に依存するとは疑っていなかった。

表 2のデータを現在の観点から見ると、昔の著者たちが、肉だけについて得られた値から、有機鉄もまた同じように "不消化" であるという、同じように明白な点に気がついてないことを不思議に思うであろう。データから自分が見たいことだけを見るのは如何に容易であり、自分の予想に適合しないことには盲目であると言うことを、これは示している。

前にも言ったように、人間は思ったような結論を何からでも出すことができる。この場合も例外ではない。食物に有機鉄が不足することなどは無いというのが根拠であった。しかし消化不良の人では小腸で硫化水素が作られ、硫化水素は鉄(その他の金属)と強い親和性を持ち、有機鉄すらとも消化できない複合体を作り、栄養的に利用できないようにする、と考えた。硫酸第一鉄は硫化水素と結合し易いので、有機鉄と結合するような硫化水素は残らず、有機鉄は利用できるようになる、と説明された。他の毒性の無い金属、たとえばビスマスやマンガンも不溶性の硫化物を作るので、硫酸第一鉄と同じように効果があるのではないかと考えられた(24)。

1890年代にはこれらの考えはエディンバラ大学の医師ストックマン(Ralph Stockman)によって挑戦された。彼はまず貧血患者に少量のクエン酸鉄を皮下注射して、赤血球数およびヘモグロビンに良い効果のあることを認めた。続いて彼は他の患者に硫酸第一鉄を含むケラチン被覆カプセルを与えた。一般に信じられていた学説によると、小腸でケラチン被覆が消化されて内容が放出されると、不活性になるはずであった。しかし実際は血液像の改善が見られた。それにたいして酸化ビスマスや二酸化マンガン(硫酸第一鉄と同じように硫化水素と結合して中和する)は貧血患者に効果が無かった(26)。これらの結果は"消化不良"説から予期されるものと矛盾した。

ストックマンはふつうの食事にいつでも充分な鉄が存在するという仮定の検討を行い、その当時に使われている鉄測定法で邪魔な物質の有ることを見出した(27)。もしも試料中に大量の炭水化物があると、一部は灰化されずに残り、最終段階で抽出液を過マンガン酸カリ溶液で滴定して第一鉄を第二鉄に酸化するときに、余計な量の過マンガン酸が炭水化物分解産物と反応した。このためにパンは肉と同じように鉄を含むと考えられていた。ストックマンの改良法では、パンは5mg鉄/kgで肉は40mg/kgであった(28)。

茶、牛乳、パン、バターからなる5種類の食事を分析してみると、貧血の若い女性は驚くほど少ない量しか食べていないので、平均3mgの鉄しか摂取していなかった。それに対して、健康な看護婦たちはもっと多種類で大量の食事を摂っているので、その中には9 - 10mgの鉄を含んでいた。鉄が少ないことと月経による損失が若い女性の萎黄病性貧血を説明すること、および、赤血球が壊されて放出される鉄の多くは体内に残り再利用されるので、鉄の排泄および必要量は全く少ない、と結論した。ストックマンの仕事は分析方法に特異性と正確性が必要なことを示し、非能率な分析方法は研究者を臨床の問題で重大な過誤に導くことを示した。

脚気(目次へ)

1880年代までに、日本はヨーロッパ製の軍艦を使い、ヨーロッパ海軍の訓練方法に従って、海軍をつくりあげた。しかし驚くべき割合の水兵が日本で脚気と呼ばれている病気にかかった。間もなくこれはアジアの他の国でベリベリ(beriberi)と呼ばれ、"多発性神経炎" に分類される病気であることが判った(図 3)。この病気の特徴は、下肢の脱力感および感覚の消失に始まり、心不全と息切れが続き、時には浮腫を生ずる事であった。英国で卒後研修を受けた海軍外科医の高木兼寛 (Kanehiro Takaki) は脚気の問題に対処することを命ぜられた。日本の水兵とこの問題が無いヨーロッパ海軍の水兵の間の唯一の差は食事のタンパク質量がかなり低く、"フォイト" の標準 より非常に低いことであった。(これは上に述べたチッテンデンの研究がなされる前であった。)

図 3 ジャワの刑務所における
    歩行困難な脚気患者。
    フォルデルマンの観察(38)。

ニュージーランド往復の練習艦の状態はとくに惨憺たるものであった。半分以上が脚気となり25人が死亡した。(訳注:日数が272日、乗り組員数は376人)高木は米を減らし、肉、練乳、パン、野菜を増やしてタンパク質の割合を高めた食事にして、航海を繰り返すように上層部に進言した。今回は死者は無く、脚気患者は上記の完全な食事を摂取しようとしなかった14人だけであった。高木は、この病気がタンパク質欠乏によって起きることを確認したと信じた。事実、全艦隊で食事を変えてから、海軍では脚気の問題は完全に無くなった。

同じ頃、オランダの東インド植民地(現在のインドネシア)で、蜂起鎮圧のために送る現地採用の軍で、同じような脚気の問題が起きた。コッホ(Robert Koch)その他による種々の病気の原因となる微生物同定の成功に鑑みて、オランダ政府は細菌学の訓練を受けたペーケルハーリング(Cornelis Pekelharing)教授が率いる小チームを派遣して8月にわたり脚気の研究をさせた。かれはこのときには高木の研究を知らなかった。

解剖の結果は神経変性を示していた。基地病院の脚気患者の血液に細菌は見つからなかったが、戦争が行われているAtjehにいる病気の兵士にも健康な兵士にも細菌が見つかった。興味あることにはそこに駐屯している兵士たちはほんの60日もするとこの病気にかかることが判った。また脚気患者の血液をイヌに注射しても変化は起きないが、一部のイヌは6週間以上にわたって20回ほどの注射を受けると病気になり、神経変性を起こすことが示された(32)。

ペーケルハーリングは最終報告にこの病気は特別な種類の細菌感染であり、このことを示すにはもっと研究する必要がある、と記した。彼はこの研究を進めるのに、彼の助手を勤めていた若い軍医エイクマン(Christian Eijkman)を推薦し、エイクマンはこの植民地に長期駐在することになった。彼はしたがって軍務から解放され、バタビア(Batavia:現在のジャカルタ)郊外にある多数の脚気患者が入院している軍病院で、文民コントロールのもとで少人数の研究チームに責任を持って研究をするようになった。

ニワトリの多発性神経炎(目次へ)

個々の動物に違いが多いことおよび多数の動物が必要なことから、エイクマンはニワトリを使うことにした。ニワトリは入手しやすく、買うにも飼うにも金がかからなかったからである。ほ乳動物ではないので実験モデルとして驚くべき選択であったが、それは運が良いことが後で判った。彼はまずニワトリに入院患者の血液を注射して感染させることを試みた。数月後にニワトリは脚気患者と同じようによろよろと歩くようになった。しかし、同じニワトリ小屋に飼っていた注射しないコントロールでも同じようなことが見られた。もちろん、これはニワトリからニワトリへの伝染と考えることができた。ニワトリを解剖すると変性した神経が観察され、人間の脚気に相当する状態を起こすことに成功したことは彼を勇気づけた。したがって彼はコントロールのニワトリを注射したニワトリから離して、さらに実験を始めたが、今回はどのニワトリでも成功することができなかった(33)。

我々は誰でもこの時点で、着実な結果を与えてくれないニワトリを使うことは止めるであろう。しかし、エイクマンは何か理由があるに違いないと考えた。ついに、ニワトリを飼っていた現地使用人が、ニワトリのよろよろと歩くようになった時期には、数月にわたって病院の調理場から食べ残しの調理した食事を貰ってニワトリを飼っていた、ことが判った。しかし、新しい調理人が採用され、民間のニワトリに軍の米を与えられないことになった(34)。

エイクマンは食べ残しのご飯を使って、3-8週間でニワトリに下肢の障害が起きることを見出した。しかし、未調理の病院の米またはニワトリ飼育用の米では3月しても健康であった。彼は米の精白法を調べ、病院で使う"白米"は前もって殻を取っておいた後で、ぬか(訳注:branのうち内層の胚芽の部分をpolishingsと呼んで区別することもある。しかし、ふつう同義に使うので両者ともに’ぬか’と訳した)を除くために "磨く" ことを知った。それにたいして、村に住んでいる人々は毎日米を搗いて殻だけを除き、"ぬか" がついたままの "玄米" を食べていた。玄米は新鮮な状態で利用すると問題は無いが、食べ物を運送し長いあいだ貯蔵する軍隊に補給するには、玄米は不適であった。何故かというと熱帯では腐敗し、食べられなくなるからである。

彼は解剖結果で末梢神経損傷の観察に基づいて、ニワトリの病気を一種の末梢多発性神経炎であると考えた。文献を読んで、この神経炎は人間では、ある種の中毒によるものであり、たぶん間接的に細菌の作る毒素のみによることを、学んだ。したがって彼の最初の考えは "調理した病院のご飯では、未知の微生物が腸管で増え、したがって神経の変性を起こす毒素を作る、のに適当である" と。ニワトリの病気が人間の脚気と違う点は、ニワトリは全体的に体重減少が見られ、玄米の量を減らして体重を減少させても、下肢が弱らないことであった。

エイクマンは長期にわたる飼育実験を始めた。しかしマラリアの発作のために中断されて、中間報告を行ったのは6年後であった。第一の発見は、調理したものより長い期間がかかるが、未調理の白米でもニワトリに病気を起こしたことである。したがって、一晩で調理した米に増殖した病原性の微生物によって病気が起きるという最初の考えは捨てなければならなかった。続いて彼は食事を玄米に換えることによって病気のニワトリを治癒できることを発見した。したがって彼は玄米に存在するぬかのどの因子に予防効果があるかに興味を持った。彼はぬかの中の繊維成分ではないかと思ってすり潰したが、効果は同じであった。殻をすり潰して繊維の代わりとすると効果は無かった。

平行する実験で、彼はニワトリをサゴまたはタピオカのデンプンで飼うと、体重が減少し、特徴的な下肢のよろめきが見られ、これらの症状は米に限らないことが判った。次に彼はニワトリに毎日500gのタピオカと25gの生肉を与えて、タンパク質が玄米食と同じ量になるようにした。ニワトリの体重は増加したが4週間すると普通のように下肢がよろよろとしだした。これはニワトリの多発性神経炎は必ずしも羸痩(るいそう)と同時に起きるのでないことに、エイクマンは注目した。ニワトリを肉だけの餌にすると徐々に回復し、最初から肉だけで飼ったニワトリは健康であった。脚気を起こす餌に共通な因子はデンプンであり、デンプンは腸管内で毒素生産性の微生物によって発酵し、玄米を取り囲んでいるぬかは解毒剤の役割をしていると、彼は結論した(35)。

彼の研究についてのこの記載すら多くの実験を省略している。その中には決定的な結果が得られなかった他の種類の動物を使った実験がある。彼がオランダに帰った後で行った講演で次のように述べたのは不思議ではない;"単純ということは真理の特徴ではない" と(36)。この男は同情されなければならない。彼の妻はインドネシアへの最初の旅行で死亡した。彼自身もマラリアの発作で苦しんでいて、これを最後に熱帯を去らなければならなかった。また、ニワトリの病気および彼がつまずいた新しい現象は、実際、脚気と何の関係があるのか、他の人たちが疑いを持っていることを彼は知っていた。事実、ある批評家は彼の報告を読んで "科学研究所の所長が書いた文献として最も不適当な結論とみなさなければならない" と書いた(37)。

1896年にオランダに帰った後で、一つの報告は彼を慰めたに違いない。バタビアを離れる前に彼はジャワの刑務所の検査官であるフォルデルマン(Adolphe Vorderman)と自分の研究について話した。彼らの間で次のことに気がついた。すなわち、すでに異なる刑務所で異なる種類の米を使って自然の実験が行われているのではないか、と。驚くべきことには、ほぼギリシャの大きさの島に、101の刑務所があり25万人の囚人が居た。フォルデルマンは詳細な調査を行い、実際、(図 4が示すように)白米を主として使っている刑務所には非常に多数の脚気患者が居ることを見出した(38,39)。"玄米" 刑務所では1万人の囚人のうちで1人しか脚気に罹っていなかったが、主として白米を使っている刑務所では39人に1人が罹っていた。大部分の囚人の刑期は短かったが、白米を食べていた長刑期の囚人は4人に1人が脚気に罹っていた。この病気の原因となり得ると考えられていた条件、たとえば過密状態とか換気不良、については悪条件の証拠が得られなかった。したがって、この報告はエイクマンの研究が人間の脚気に関係あることを強く示したものであった。

図 4 使用した米と脚気の罹患率
  ジャワ刑務所における研究
  I 半分精白、II 混合、III 完全精白
    フォルデルマン(38)


バタビアにおけるエイクマンの後任はフレインス(Gerrit Grijns)(訳注:オランダ語の発音にしたがった。日本ではグリインスとしていることが多い。)であった。彼のバックグラウンドは前任者とほぼ同じであった。彼の最初の研究は米ぬかを分画して、含まれている活性物質の性質を見つけることであった。彼の分画方法は活性を失わせたので、最初彼は失望した。 続いて、このことはニワトリのこの病気はデンプンの存在に依存するというエイクマンの考えを検討する良い機会であることに、彼は気がついた。彼は肉をオートクレーブにかけて、8匹のニワトリをこれだけで飼ったところ、1匹を除いてすべて特徴ある麻痺状態を示し、すべて死亡した。したがって、たぶん毒素を生産する発酵を通して、この病気にデンプンが関係することは、否定された。フレインスはまた数種のマメがニワトリの白米食のサプレメントとして米ぬか以上に有効であることを示した。彼は1901年の論文を次の歴史的な文章で終わっている:"自然の食品にはある種の物質が存在し、それが欠けると末しょう神経にひどい障害が起きる。これらの物質は異なる食品中にきわめて不平等に分布している。...これらの物質は容易に分解するので、分離は容易でない。...これらを単純な化合物で置き換えることはできない。"と(40)

フレインスもまた他の熱帯病から回復するために1902年に2年間オランダに帰らなければならなかった。しかし彼の研究はすぐに他の人たちによって続けられた。ポル(Hulshoff Pol)はインドネシアのある精神病院の医師であり、ここでも脚気の深刻な問題があった。彼はフレインスのマメについての研究を聞いて、患者について試みることを決心した。まず、すでに脚気に罹っている男たちは別の病棟に移させ、最初は健康な患者を対象として6つの建物に住まわせた。3つの建物の患者をコントロール・グループとして標準的な給食を行ったところ、次の9月の間にどの建物でも脚気患者が出た。脚気患者は全員58人のうち19人であった。ランダムに選んだ残りの3つの建物の患者には標準給食の他に150gの緑豆を与えたところ、78人全員のうちで誰も脚気に罹らなかった。標準給食を摂取して脚気に罹った人たちも同じように緑豆を与えると治癒した(41)。この結果は小動物で行った研究が人間の病気の治癒と予防に関係することを示す更に一つの確証であった。

1905年までにインドネシアにおけるオランダの研究者たちは、白米には熱に不安定な未知のある物質が欠けていることによって、脚気が起きることをかなり説得力をもって示していた。しかし、脚気が蔓延しているアジアの他の国でまだ受け入れられなかった。1904−1905年の日露戦争のときに満州(中国の東北一帯)に出征した多くの日本兵士(9万から20万人)は脚気にかかり、臨時病院に戻されて感染症として治療された(42)。

マレーシアでも脚気は根深い問題であった。イギリス植民地の医官であったブラドン(Leonard Braddon)は最新のオランダの研究を知らなかったが、白米は悪者であると確信していた。しかし彼は米を"精白"すると表面が多孔質となり精白機械に貯まっていた病原性のカビを受け取り、さらに貯蔵している間にカビは白米中で増殖すると考え、これが脚気の原因であると信じた(43)。

マレーシア医学研究所の研究員たちはオランダの研究を学び、ニワトリを使って独自の研究を始めた。彼らは白米の餌に玄米のアルコール抽出物を与えると多発性神経炎の発現を抑えるが、アルコール抽出をした玄米で飼うと脚気が起きることを見出した(44)。これらの研究は白米が有毒なのではなく、何かが不足しているとすることによってのみ、説明することができる。

1898年のスペイン・アメリカ戦争の後にアメリカはフィリピンを占領して、現地人軍の間における脚気の問題に直面したので、当局は1910年にこの問題を討議するための国際会議を提案した。この会議には日本、ジャワ、マレーシア、タイ、スリランカおよび現在ベトナムと呼ばれている地域からフランス代表が出席した。この病気は白米を主食とする人々に限定されていることに意見は一致し、アメリカ代表は "公衆栄養" 的な方法をとって、白米製造を禁止するか、白米に不足するものを補充できる種々の食事を食べることのできる人たちだけが買えるように税を高くすることを、提唱した。しかし他の代表たちは玄米は熱帯では腐敗するので、この方法は実際的ではないと考えた(45)。

日本では数年前から母乳哺育児で "タオン" と呼ばれる病気のあることが知られていた。この病気は嘔吐、浮腫、尿分泌停止が特徴であった。死亡率はきわめて高く、母乳が有毒なように思われた。牛乳を与えると治癒するからである。フィリッピンの米陸軍軍医団に勤めていた医師たちも同様な観察をした。彼らは母乳哺育兒に米ぬかのアルコール抽出・蒸発物を与えると治癒することを見出した(46)。

この時までにジャワやその他の地域の研究者は、米ぬかから活性因子を濃縮し単離し、長期計画として構造を決定し最終的には合成することを夢見ていた。飼うのが容易なハトは、抗脚気因子が不足すると特徴ある頭の後退反応(retraction)を示す事が、ドイツで見つかった(図 5)。今や準備の整った西洋の実験室でこの問題を取り扱うことが、脚気の存在する国々と同じように容易になった。たとえば、米ぬかはリン酸の濃度が高いので、ドイツの研究者たちは、フィチン、核酸その他のリン酸化合物の効果を調べた。これらは活性が無かったが、乾燥酵母は効果が強かった(47)

図 5 2-3週間白米で飼ったハトは
     典型的な頭部の後退(上図)。
     同じハトに酵母抽出物を与えた
       3時間後(下図)。(65)

1911年にポーランドの化学者でロンドンのリスター研究所で研究していたフンク(Casimir Funk) は米ぬかから活性ある結晶を初めて得たと主張した。この物質は有機塩基を含んでいて、50mgで欠乏症ハトを治癒させることができた(48)。次の年に日本の研究者たちはもっと強力な物質を得た(49)。これらは後になって混合物であることが判り、その後多年にわたって激しい精製競争が行われた。

くる病(目次へ)

小児のくる病は、骨の不十分な石灰化、歩行による下肢の湾曲、肋骨の変形、を特徴とし、この時期の西ヨーロッパおよびアメリカの大都市で、ますます一般的な問題となった。カルシウム塩の不十分な摂取は直接の原因ではなかった。何故かというとこれらの場所の水には他と同じように高濃度の "石灰" が含まれていたからである。これは金持ち家庭のふっくらとした栄養の良い子供たちにも見られた。チードル(Walter Cheadle) がこの問題についての総説に記しているように、共通の因子は、この子供たちが母乳ではなく、脱脂乳、または母乳よりも炭水化物が多く脂肪が少ない、新しく特許が得られた "人工食" を与えられていたことであった。彼はまたロンドン動物園の問題にも言及して、ライオンの子供たちは母親ライオンに無視されていて、ウマ肉にタラ肝油と挽いた骨を与えないと、くる病で死ぬ、と述べた(50)。

日本駐在の医師で宣教師であったパーム(Theobald Palm) は、くる病がここには全くないのに驚いた。彼は仲間の宣教師たちによる全世界でのこの病気の分布調査を組織し、充分の日照時間があり、工場の煙で邪魔されていない地域では、この病気は存在しない、という結論に達した(51)。これらの2人の著者の研究をまとめると、この病気は次の2つの条件があると起きることが示された。すなわち、日光が不十分であり、子供に母乳の代用品として不適なものが与えられている、ことであった。次の時代になると、これらの考えは動物モデルによって検証されたが、この病気はどのようにして予防できるか示す充分な事実が与えられていた。

小児壊血病(目次へ)

1885年までにロンドンの小児科医バロウ(Thomas Barlow) は、くる病の小児において成人壊血病を思わせるような別の問題のあることを観察していた(52)。死体解剖で四肢の長管骨の端に出血が見られ、肋骨は結合している軟骨から分離していた(52)。これらはリンドその他が観察した成人壊血病の特徴であり、くる病の症状ではなかった。フランスとドイツでもこの症状はしばしば観察され、"バロウ病" と呼ばれるようになった。

これはアメリカでもますます見られるようになり、1897年までに50以上の論文が刊行された。次の年にアメリカ小児学会は哺育方法の判っている356例について調査を行った。これらのうちで12例のみが母乳哺育で、大部分は殺菌牛乳または "コンデンス・ミルク"、または特許粉末を水に溶かしたものを与えていた。また、小児にオレンジジュースと未殺菌牛乳、または未殺菌牛乳だけを与えても治癒することが判った(53)。

この時まで若い子供たちの主な死因は "夏下痢" であった。これは大都市に運ばれてきたミルクのひどい細菌感染によると考えられていた。したがって多くの市は若い子供たちに殺菌ミルクを与える積極的なプログラムを持ち、成功していた。したがって小児科医たちは他の点では優れている殺菌ミルクを悪者にするのは気が進まなかった。

この問題はパリでもベルリンでも討議された。一つの考えは、加熱によってある種のミルク・タンパク質に変化がおきて消化され難くなり、不消化残渣は大腸で腐敗して自家中毒を起こす、ことであった。これはもちろんニワトリに米でんぷんが脚気を起こすことについてのエイクマンの解釈に似たものであった。殺菌ミルクを与え続けてもジャガイモ粥またはオレンジジュースを追加するとこの症状は治癒するのでこの考えは支持されなかった。脚気の場合のように動物モデルは得られなかった。

成人壊血病(目次へ)

この時期に北極探検のあるグループでは毎日1オンスのライムジュースを摂っていても壊血病になり、ある探検で陸に取り残渣れた人々はライムジュースが無くても生または軽く調理した肉と血液を摂っていて健康を保っていた(54)。成功したある探検隊のリーダーであったジャックソン(Frederick Jackson)は次のような結論を下した。"ライムジュースの使用は壊血病の予防にも治療にもならない...壊血病は腐った食品を食べることによって起きる。... 細菌が病気の原因であることをパスツール(Louis Pasteur)が警告して以来、壊血病の科学的な研究はなされていない" と。彼はそれまでの探検で使われていた塩蔵肉の代わりに使われるようになった缶詰肉に特に注目した。彼は缶詰にする前に肉は腐敗し、増殖した細菌はプトマイン(ptomaine:死体毒)となり、オートクレーブして細菌が死んでも毒は残る、と考えた。彼は新鮮な獲物で生き抜いた自分の経験や、流通拠点で壊血病が起きたときにハドソン湾会社は優秀な狩猟家を送って従業員の食事に新鮮な肉を供給した例を、引用した(55)。

ジャクソンはロンドンに帰るとロンドン大学の生理化学の教授の協力を受けて、新しく開けた缶詰肉と開けて数日たって酸っぱくなった肉でサルを飼った。不幸なことにサルは輸入したばかりで環境に適応していなかった。すべては下痢をおこし8週間以内に死んだ。実験者たちは、酸っぱい肉を食べた8匹のうちの5匹の歯肉はぶよぶよになったが、新しく開けた缶の肉を食べたサルではそのようなことはなかった、と信じていた(56)。彼らの研究はロンドンの英国学士院で名声高い聴衆の前で発表され、かなりの影響力を示すようになった。

次のイギリスの南極探検ではプトマイン中毒にたいしての準備がなされた。1901年の出発にさいして主任外科医は、"いわゆる抗壊血病食品の効果とは幻想に過ぎない....。細菌が中でプトマインを作ると動物性食品は壊血病を引き起こすようになる、...そうでなければ壊血病は起きない" と言った(57)。その外科医が検査して承認した缶詰肉を主として摂った冬に続いて、橇探検が行われ、数週間後で壊血病が重大な問題となった。今や規則は逆になった:食事にさいしてライムジュースはテーブルに置かれ、新鮮な肉を得るためにアザラシは殺され、外科医は芥子とクレスを育て始めた。徐々に隊員の健康は元に戻った(58)。

モルモット壊血病(目次へ)

1902年にノルウェーの細菌学・衛生学教授のホルスト(Axel Holst)は脚気と診断されているノルウェー船の乗り組み員たちの病状と関連して、バタビアのフレインスを訪ね、彼の多発性神経炎・ニワトリの研究を見る機会を得た。オスロに戻って、ホルストは"航海脚気"により近いモデルとして、ほ乳類のモルモットを選んだ。彼は全粒または製粉した穀類で飼ったところ、すべて30日以内に死亡した。死体を解剖すると、"極度の内出血" が起き、臼歯がぐらぐらしていた。小児壊血病診療の経験があるフレーリッヒ(Theodor Frölich)は、この状態は多発性神経炎のどのような種類でもなく、壊血病であることを確認した。彼ら2人はこの条件は半飢餓によるものではなく、これまで抗壊血病の効果があると言われてきたレモンジュースと新鮮なキャベツを与えると予防効果のあることを見出した(59)。さらに彼らは、牛乳を消毒するためにオートクレーブ処理をすると、抗壊血病の効果の大部分が失われることも確認した。

これは重要な研究であり、脚気にたいするニワトリの多発性神経炎と同じように壊血病にたいする動物モデルを提供したものであり、この病気は何らかの中毒によるものではなく、ある種の欠乏病であることの追加的な事実を与えた。

夜盲症と眼球乾燥症(目次へ)

この時期においてこの病状に関して刊行された最も重要な仕事は森正道(Masamichi Mori)によるもので、この地域で "脾疳" と呼ばれていた病気1500例についての研究であった。彼はこれが西洋における夜盲症や眼球乾燥症と同じであるとし、彼の患者にも西洋の例と同じように角膜軟化症から失明に進行する例が見られた。彼は離乳期の子供たちの食事に脂肪が不足しているとした。この病気にはタラ肝油がもっとも効果があり、オリーブ油は無効であり、ヤツメウナギ油はそれらの中間であった。彼は3種のうちでタラ肝油が最も良く吸収されると考えた。彼は動物のミルクが保護効果はあるが、この病気の症候を示す母親から母乳で育てられた赤ん坊はこの病気になるとした(60)。夜盲症の治療で動物の肝臓やタラ肝油が有効なことは知られているにもかかわらず、教科書では推奨されていなかった(61)

甲状腺腫(目次へ)

この時期にはこの病気について何も進歩が無かった。1895年に指導的なドイツ外科医は患者たちに動物の甲状腺を与えて良い結果を得たと報告し、患者たちの甲状腺が異常肥大を起こすのは、甲状腺分泌が少なすぎることにたいする身体の反応であろうと考えた。しかし、この治療法は好まれなくなった。それは大量に与えすぎて、不愉快な副作用があったからであろう(62)。この問題の真の本質が解明されるにはさらに20年が必要であった。

単一の穀類で飼育したウシ(目次へ)

ミルクの脂肪を手軽に測定する装置を開発したことで有名なバブコック(Stephen Babcock)は、食品や飼料の栄養評価に近似分析(窒素、エーテル抽出、粗繊維、水分、灰分)を使用することに、疑いを持っていた。バブコックはアトウォーターに近似分析を信じているかと尋ね、もしもそうならウシの糞は近似分析では優れているので、ウシの餌に使うと良いだろうと言って、彼を悩ましていた。ウィスコンシン大学を退職したときに、後任の農芸化学教授のハート(Edwin Hart)に、単一の穀類の餌だけで飼った牝牛と混合穀物の餌で飼った牝牛を比べるように申し入れた。

ハートはこれに同意して、共同研究者と一緒に、生後6月の16頭の牝牛を飼育した。トウモロコシ、燕麦、小麦だけからなる3種類の餌を作り、穀粉、グルテンと麦ワラを適当に混ぜてエネルギー値と近似分析値を同じようにした。第4の餌は上記3種類の餌を混ぜたものであった。試験は1906年に始まり、2繁殖期のあいだ続いた。結果を表 3に示す。小麦だけからなる餌を与えられた牝牛は状態が急速に悪化して、子牛は1頭も生存できず、母牝牛の2頭も試験終了前に死亡した。これにたいしてトウモロコシを与えた牝牛は状態を良く保ち健康であり、他の餌を与えたものの結果は両者の中間であった(63,64)。これは試験場にとって金がかかる実験であり、最終実験の後で著者たちは"我々の結果について適当な説明はできない"と書いた。しかし長い目で見るとこの研究は高度に生産的であったことがわかった。ウィスコンシン大学を国際的な栄養科学の指導的なセンターにするための出発点になったからである。

"単一穀類研究" にハートが採用したのは若い化学者マッカラム(E.V.McCollum)であった。彼は以前イェールでメンデルと研究をしていた。試験終了後にハートは小麦食は何が悪いか(または何が不足するか)を見つけるようマッカラムに命じた。しかし彼はウシが食べる餌の量はあまりにも多いので質をコントロールするのは不可能であり、ライフサイクルが短いので小動物を使うべきであると考えた。彼は学部長の反対を無視して、ラットを使った実験を始めた。これは次章で述べるすばらしい大河小説の始まりとなった。


表 3 若牝牛4匹をグループとして単一穀類を与えたウィスコンシンにおける実験の総括(63,64)

使った穀類 1年間の体重増加(平均) 2年後の牝牛数

ミルク生産(平均)
誕生 健康

lb n

lb/d
小麦 353 5 0 12.1
混合 410 6 3 20.6
燕麦 408 8 6 24.7
トーモロコシ 471 8 8 26.0

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(訳者 水上茂樹)


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