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KJ カーペンター:栄養学小史 その一(1785ー1885)
A Short History of Nutritional Sciences:Part 1(1785 - 1885)
Kenneth J. Carpenter
(Department of Nutritional Sciences, University of California, Barkeley, CA)
©2003 The American Society for Nutritional Sciences J. Nutr. 133:638-645
リンク:free full original article on Internet (原論文)
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目 次
[総目次] [その一] [その二] [その三] [その四]
はじめに
なぜ窒素だけを重視するか?
合成するのは植物だけ
原子説
"動物物質"の構成
タンパク質は唯一の栄養物である
エネルギーの保存
消化
壊血病およびその他の疾患
北極壊血病
甲状腺腫とクレチン病
はじめに
この論文は、私たちの学問(栄養学)の簡潔な歴史入門書であり、教科書に使えるように計画された4編の招待論文の第1編である。スペースが限られているので、私は栄養に必要な物質の発見や、栄養素を供給する食品の研究に焦点をしぼることにした。栄養学は分析化学および一般生理学の発展に大きく依存してきたが、これらの歴史書は既に存在している。
簡潔に取り扱うことによって多数の著者や論文に言及することもできたが、そうすると読みにくくなってしまう。したがって、私は新しい土地を切り開いて他の研究を刺激したようなトピック(訳注:パラダイム・シフト参照)を選ぶことにした。この場合、トピックは著者によって異なることになるであろう。
私は研究をその当時の研究者の観点から眺めるために年代順に取り扱うことにした。これは現在の考えによって過去の研究を時期尚早に説明しないようにするためである。多くの場合、歴史的なオリジナル論文を引用することにした。しかし、多くの文献を利用できるので入手が容易な総説も引用した。書籍や長い論文から引用するときには、引用箇所のページを明記できるように本誌の編集者から特別の許可を頂いた。
1785年以前にも、多くの学者たちは我々の食べている食物が体内でどのように使われているかを考察し発表してきた。しかし、この問題を定量的に科学的に検討するには、18世紀末にフランスでいわゆる"化学革命"が起きて、多くの元素が同定され、化学分析の方法が発展するのを待たなければならなかった。このような一般化には、後で述べるような例外(訳注:壊血病の研究)があった。現代の研究者たちは18世紀末にこの"革命"を起こした科学者たちの研究についてよく知らないし、彼らの能力をしかるべく評価していない。しかし彼らは指導者であり、"動物化学の暗い森"に進出した点で同時代の人々の先駆者であった。
たとえば1785年にベルトレ(Claude Berthollet)がフランス科学アカデミーに提出した発見は重要な意味を持っている。彼は動物物質(訳注:タンパク質)が分解して発する気体はアンモニアであり、3容量の水素と1容量の窒素からなり、重量では約17%の水素と83%の窒素からなることを見いだした(1)。現在の値は17.75%および82.25%である。これは感激すべき仕事である。この時代に入手できた装置だけを使って、今日の研究者たちの多くはこの研究を繰り返すことができないであろう。
動物物質に窒素が含まれ、砂糖、デンプン、脂肪には窒素の含まれていないことが、他の人々によって確認された。しばらく前から、小麦粉には腐らせると動物物質と同じようにアルカリ性の蒸気を出す物質(グルテン)の含まれることが知られていた。これ(グルテン)があるので小麦は優れた食物なのではないか、新しく利用されるようになったジャガイモはグルテンに相当するものを含まないので小麦の代用となるか、が議論された(2)。
もっとも有名なラヴォアジエ(Antoine Lavoisier)をはじめとして、フランスにおいて"化学革命"を起こした化学者たちは、代謝にも興味を持っていた。ラヴォアジエは助手セガン(Armand Seguin)の協力のもとに、安静時および重量挙げにさいしての呼吸による炭酸(二酸化炭素)の排出を測定し、活動によってどのように増加するかを示した(3,4)(図 1)。これは重要な進歩である。何故かと言うと、それまで呼吸の目的はすべて心臓を冷やすためであり、成人における出納の研究で、大便や尿に回収されない摂取物質は"不感蒸泄"で失われるに違いない、と考えられていたからである。
図 1 ラヴォアジエ夫人によるスケッチ。
彼女の夫は助手セガンの炭酸の排出を測定し、
彼女はその記録をとっている。
(Wellcome Institute, London)
ラヴォアジエは数学者ラプラス(Pierre-Simon Laplace)と協同して、二酸化炭素生成に伴うモルモットの熱発生を、ロウソクや石炭が燃えるときの結果と比較した。熱発生は氷カロリメーターで測定した。ここで発生熱は、動物または燃えているものを入れた内室の周りの氷から溶けて出る水の重量に比例した(5,6)。正確とは言えないが結果は彼らが信ずるように、モルモットの組織内で有機物質が燃えると考えることができた。カロリメーターのその後の進歩については、栄養学小史(その二)に譲る。
ラボヴァジエは呼吸の次の研究に進んだが、"恐怖時代"の1793年に逮捕され、牢獄につながれた。1794年の裁判の日に彼は処刑を少し延ばして実験を一つさせて欲しいと懇願した。しかし、"共和国は学者を必要としない"と判事は答え、午後にラボヴァジエはギロチンにかけられたと言われている。
フランス革命の時期においては、科学の進歩だけでなく新しい精神が働きだした。古い仮定を認めずに新しく始めるという考えである。この時期は新しい栄養科学の始まりによって特徴づけられ、化学革命は栄養学の発展に必要な道具を準備した。フランスの若い先駆者は次のように述べた。"栄養学はこれまで思索や巧みな仮説の対象であった。しかし我々の実際の知識は不十分であり、我々の想像を満足させるだけのものであった。もしもっと正確な事実に到達できたら、そのような事実は医学の実用に供せられるであろう。"
この筆者はマジャンディ(François Magendie)であった。彼は革命期のパリに育ち、生理学に転ずる前には外科医として開業していた。生理学における彼の最初の研究は1816年に科学アカデミーに報告されたもので、動物は摂取した窒素含量の低い食品を空気中の窒素によって "動物化" できるか否かを、直接に問いかけたものであった。空気中にはもちろん十分量の窒素が存在するので、動物が植物性の食品を消化するときにこのような結合が起き、これらが成長や使い尽くされた物質の補充のために動物組織に取り込まれることを示唆する化学者もいた。
マジャンディの有名な実験は、それ以前に試みられなかったのが不思議に思われるほど、非常に単純なものであった。それは窒素を含まないが栄養物と考えられてきた単一の食品を犬に与える実験であった。ここで犬は植物性の食事も動物性の食事も摂ることができる動物種である。最初の犬に与えたのは砂糖であった。犬は最初の約2週間はよく食べたが、その後に体重は減少し始め、角膜潰瘍を生ずるようになった。1月後に犬は死んだ。彼はこの実験を繰り返し、続いてオリーブ油、アラビアゴム、バターだけを食事に与え、オリーブ油では角膜潰瘍を起こさなかったことを除いて、すべて上と同じ結果を得た(8)。
彼の結論は、まずこれらの食品はよく吸収されるが優れた( "犬が必要とするすべての物を与える" の意味と思われる)ものではないこと、第二に犬の組織にある窒素は全部ではないにしても大部分は摂取した食品に由来するもの、であった。現在の観点から見ると、彼の結論には欠陥がある;すなわち、含窒素物質の他に彼の食品には他の物質が不足している可能性があるし、彼の実験には "砂糖 + アルブミンまたはグルテン" のようなポジティブ・コントロールが無いことであった。1816年の論文に彼は "犬はパンだけで非常に良く生きられることを誰でも知っている" と書いた後で、実際に実験をして "犬は50日以上生きることは出来なかった" ことを見いだした。彼の最終の結論は現在の "食事ガイドライン" にも反映されているように "食べ物の多様性、多種性は衛生の重要な法則である;さらに、このことは直感が我々に示す" (9)であった。
この頃、骨を煮沸して得られる窒素含量の高いゼラチンは、フランスの病院で肉の経済的な代用品として使えるかどうかが、論じられていた。マジャンディはこの問題を解決するために更に実験をするように科学アカデミーから要請された。パラドックスと見られるような結果が得られたので、彼は10年後に次のように報告することを余儀なくさせられた。すなわち、"研究でよく見られるように、予期しない結果が筋の通った予想と矛盾した" と。ゼラチンは犬にとって完全な食事ではなかったが、水で晒した肉も同様であった。彼は肉から濾し出された必須物質は何であるか化学者が研究するように示唆した:"多分、鉄または他のイオン、脂肪性物質または乳酸であり得る" (10)と。実際、この問題がアメリカでマッカラム(E.V.McCollumn)によってもっと使い易いモデルであるラットを使って再検討されたのは、さらに75年後のことであった。
マジャンディの研究の背後には、言及はされていないが重要な仮定があった。それは他の研究においても動物を人間のモデルとして使用できること、および人間の身体は動物の身体と本質的に同じ一般的な性質を持つこと、であった。これは部分的にせよ、フランスにおける比較解剖学 (訳注:動物の解剖学) への興味に由来すると言えるかも知れない。
1830年代のフランスでは、マジャンディと異なる背景を持った活発な研究者が、動物の窒素含量の多い組織の起源を同じように研究していた。それは化学を鉱山技師養成の学校で学んだブサンゴー(Jean Baptiste Boussingault)であった。彼は南アメリカにおける危険な地理学的調査から帰り、農園所有者の令嬢と結婚し、農学に興味を持つようになった。彼はパリのソルボンヌ大学に職を得て、フランス化学の指導者の一人であるデューマ(J.B.Dumas)と共同研究を行い、1年をパリと農園の両方に分けて過ごすことになった(11)。
まず作物の研究を行い、豆科植物は生長に際して空気中の窒素を利用できるが、穀類は出来ないことを示した。続いて牛や馬の研究に転じた。牛や馬の飼料に窒素はきわめて少ないことが知られていた。彼の研究方法は動物たちの体重を一定に保たせ、3日のあいだ飼料、排泄物および牝牛のばあいはミルクを集めて窒素含量を分析し記録することであった。馬は24時間に全部で8.5kgの干し草と燕麦を食べ、1日の窒素摂取量は139gであり、尿および糞に回収される窒素量は116gであった。牝牛は干し草とジャガイモを与えられ、1日の窒素摂取量は201gであったが、回収された窒素はミルク中の46gを含めて175gに過ぎなかった(表 1)。彼は、動物たちに与えた飼料には必要な窒素が含まれていて、大気から窒素を取り込むという仮説は不要である、と結論した。
表 1 乳牛の毎日の窒素の摂取量と排出量(12)
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この研究は今日まで何千回と行われている "窒素出納試験" の最初の例であると思われる。しかし残念なことにこの頃までに開発された唯一の窒素測定方法によると、彼は試料を乾燥させなければならなかった。彼が尿や糞を乾燥している間にアンモニアが失われたと思われる。定常状態にあると思われる動物たちで正の窒素出納が見られたのはこのためと考えられる。
なぜ窒素だけを重視するか?(目次へ)
草食動物の出納試験を行う前にも、ブサンゴーは植物性食品の相対的な栄養価値は窒素含量によって評価できると述べていた(14)。それは、ほぼ次のような理由によると考えられる。"マジャンディは、窒素を含まない食品によっては生命の維持ができないことを示した。従って植物性食品の栄養価値は主としてそれに含まれているグルテンおよび植物性アルブミンにある"と。この頃の研究者たちは、動物体にミネラルが含まれていて、これらを食物から得なければならないことを、確かに知っていた。もっと前にも2人の研究者たちは"マメ科の食品はデンプン、動物物質、リン酸、石灰、マグネシア、カリ、および鉄を含んでいるので、栄養価が高い。マメは血液を作り色をつけ、骨の栄養になる栄養物や物質を一度に供給することができる"(15)と書いた。多分このような批判にたいしてだろうが、ブサンゴーは次のように弁明している。"私は窒素を含む物質だけが動物の栄養に重要であると言っているわけではない。しかし植物で窒素含有物質の多い場所には、栄養に必要なその他の有機物質および無機物質が含まれている" (16)。この文章から見ると、彼が "有機物質" と言っているのはデンプンであって、仮定的な微量栄養物でないことは明らかであった。
この時期に研究者たちが、完全な食事として、他の栄養物を必要と考えなかったのは何故であろうか?水兵たちのあいだで壊血病が問題となり、果物や野菜がこの病気の予防に役立つ事実は他の栄養物の存在を示したのではないかと考えるであろう。しかし抗壊血病物質の臨床研究で有名なリンド(James Lind)自身すら、これらの物質は海の空気の悪い影響に対抗するものであって、陸地に住んでいる人たちにとっては、マラリア流行地に住んでいない人たちにキニーネが無用なのと同じである、と信じていた(17,18)。さらに、フランスの研究者たちが使っていた犬はこのような物質(アスコルビン酸)を必要としなかった。
合成するのは植物だけ(目次へ)
上に述べた結果から、ブサンゴーの共同研究者であった化学者デューマは、動物組織に多い含窒素物質を合成できるのは植物だけであると結論した。彼はさらに一般化して、動物体内で起きる反応は全体的には酸化であることから、動物は植物食品から得られる物質を酸化するだけであるとした(19)。
この頃、ドイツの指導的な有機化学者リービッヒ(Justus Liebig)が前面に出てきた。彼もまた "動物化学" の問題に興味を持ち、ブタにデンプンだけでほとんど脂肪を含まないジャガイモを与えるとブタの太ることがよく知られているので、デューマは間違っていると書いた。動物は炭水化物を脂肪に変えることが出来、これは酸化ではなく還元だからである。
これはこの領域で議論の余地がない権威であったフランスの研究者にたいする挑戦であり、ブサンゴーは他の先駆的な研究でこの問題の検証を試みた。1匹の若いブタの死体を分析し、同時に同腹の同じ体重のブタにさらに3月のあいだ餌を与えた。第2のブタの死体を分析すると、13.6kgの脂肪が増えていた。ここで与えた餌には6.8kgの脂肪しか含まれていなかった(20)。
従ってこの注意深い実験はフランス学派の誤っていたことを示した。ブサンゴーとデューマの二人は動物での研究を行わなくなり、リービッヒは実際に動物飼育実験をしたことは無いのに、新しい権威者となり、生理学および栄養学で自分の考えを押し進めるようになった。これらの考えの大部分は完全に誤っていることが次第に明らかになってきたが、少なくとも他の人が研究を行い検証をする要因になった。
原子説(目次へ)
上に述べた研究が進行している間に、化学でもう一つの重要な発展がなされ、その後の栄養学の研究で利用されるようになった。イギリス北部の、貧乏で主として独学の学校教師ドールトン(John Dalton)は、重要な考えを持っていた。すなわち、すべての元素は分割できない粒子である原子(atom)から成っており、それぞれの元素はすべて同一の原子から成るという考えであった。化学結合は2つまたはそれ以上の異なる原子が強固な結合をすることによって起き(21)、すべての化合物において異なる元素の割合は一定であること、および異なる化合物において同じ2つの元素の間に単純な割合が成立すること、により支持された。例えば"二酸化炭素"と呼ばれる気体は"一酸化炭素"に比べると(炭素の重量あたり)正確に2倍の酸素を持っていた。最後に気体は容量にすると単純な比で結合している。たとえば3容量の水素は1容量の窒素と結合して、正確に2容量のアンモニアガスとなった(22)。このことから、もしも水素、酸素、窒素のような元素は2個の原子が結合して1個の分子を形成しているとすると、同じ容量の気体は同数の分子からなっていることになった。
しばらくの間、炭素および酸素の原子量は現在の半分ではないか、という議論が行われた。しかし、その当時に得られた分子式を直すのは容易である。たとえばイギリスでプラウトは尿素を改良方法で分析してC2H4N2O2の分子式を得たが、炭素と酸素の原子量を2倍とすれば現在のCH4N2Oが得られる(23)。10年ほど後にドイツでヴェーラー(Friedrich Wöhler)はシアン酸銀を塩化アンモニウムと加熱して尿素が得られることを見いだした。彼は感激して "腎臓を使わないで尿素を作ることができた" と旧師リービッヒに報告した。もちろん尿素は排泄物に過ぎないが、この合成は生体で作られる有機化合物が "生命力" (vital force)の助けを借りないで合成できることを示した小さな第一歩であった。
ヴェーラーはリービッヒとともに有機化学における重要な概念を発展させた。これは "反応基" (radical)の考え方であり、他の試薬と結合するが本来の性質を保ち、さらに反応することによって回収できるものであった (訳注:フリーラジカル(free radical)と混同しないようにラジカルは "反応基" または "基" と訳すことにした)。最初の例はベンゾイル基である。ベンツアルデヒドから出発し、酸化して安息香酸を作ったり塩化物を作ることなどができるが、適当な還元反応によって最初のベンツアルデヒドに戻すことができた(24)。
"動物物質"の構成(目次へ)
この頃までいわゆる "動物物質" はアルブミン、フィブリン、カゼインなどのように溶解度など物理的性質は異なるが、すべて窒素含量が約16%である、種々の形のものと理解されていた。1839年にオランダの研究者ムルダー(Gerrit Mulder) はこれらすべては共通な反応基にリン、または硫黄、または両者が結合したものであることを示唆し、その仮定的な反応基には、動物界における第一のものであることを示すために、ギリシャ語に由来する "protein" の言葉を利用した。彼はこの反応基を "pr" で示し、卵アルブミンを "Pr10・SP" ,血漿アルブミンを "Pr10・S2P" とし、反応基そのもの分子構造は "C40H62N10O12" であるとした(25)。
リービッヒはこの考えを熱狂的に受け入れ、彼が植物組織から抽出した類似物質も4原子の炭素と1原子の窒素を含むと報告した。彼はさらに次のようなことを示唆している。"プロテイン(蛋白)" 反応基を合成できるのは植物であるが、他の成分を加えたり加えた成分を取り去って、たとえばアルブミンをフィブリンにするなどの能力を持っているのは動物である(26)、とした。パリで研究していたデューマとカウール(Cahours)も、カセインと血清アルブミンでC:N比が4:1であることを見出したと書いた。しかしリービッヒが植物カセインと呼んでいたマメ類から抽出される "レギュミン" ではこの比は3.25:1に過ぎなかった。マメ類は栄養価が高いと考えられてきたが、リンや硫黄を付けたり外したりすることによってアルブミンにすることが出来ないとしたら、これは問題であった(27)。
リービッヒもまたムルダーの考えを受け入れたことを後悔した。彼の研究室の人たちは、ムルダーが記載したようにアルブミンから硫黄を除いて "プロテイン反応基" を得ることはできなかったし、予想する割合のリンや硫黄を種々の物質で見出すことは出来なかった。リービッヒは彼自身が主張していたことも否定してムルダーを批判し、ムルダーを憤慨させた。兎も角プロテイン反応基の概念は文献から消え去り、"プロテイン" という言葉は以前に "動物物質" と呼ばれたすべての物質にたいして使われるようになった。
タンパク質は唯一の栄養物である (目次へ)
この間、リービッヒは広く読まれた本の "動物化学すなわち有機化学とその生理学および病理学への応用" を出版した。この中で彼は筋肉の収縮のためのエネルギーはタンパク質の爆発的な分解によって与えられ、その結果として尿素が作られ、排泄される、と論じた。これは彼の分析によると筋に炭水化物や脂肪を検出できなかったからである。従ってタンパク質は身体の機械であるとともに燃料となる唯一の真の栄養物であった(28)。
もしもこれが正しければ食事の他の成分は何の役割を持っているのであろうか、運動のときに炭酸が著しく増加するのは何故であろうか?リービッヒの説明によると呼吸の増加は心臓その他の組織が過熱しないようにするためであった。しかし、これによりもっと大量の酸素が組織に供給され、その結果として酸素による障害が起きタンパク質が失われることになった。脂肪や炭化水素は優先的に酸化されることによって余計なものを取り去ると考えていた。
リービッヒの本は最初は巨大な知的総合を示すものと一般にみなされ、多くの人たちは彼の考えに従うようになっていた。たとえばエディンバラ大学の内科学の教授は、スコットランドの刑務所における深刻な時期外れの壊血病の調査を要請されたときに、タンパク質の摂取不足によるのであろう、とすぐに結論した(29)。しかし彼の計算によるとタンパク質摂取は十分量の135gであった。しかしこのうち15gだけが動物由来で、102gはグルテンであった。彼はグルテンを動物タンパク質にする能力が身体に十分ではないので、食事中のミルクの割合を増やすことによって、動物タンパク質の摂取を増やすよう示唆した。他のスコットランドの医師は、レモンジュースの壊血病予防効力は確認されているが、これにタンパク質は殆ど含まれていないから、タンパク質によるとは考えられない、と答えた(30)。
図 2 ロンドン刑務所の足踏み車(treadmill)
スミスは労働日と休息日の尿素排出を比較し
たり、労働に応じて自分の炭酸排出が増える
ことを示すのに、このような装置を使った。
これらの測定は筋が使う燃料やその能率を
知るのに用いられた。
(British Register, 1823)
筋活動にタンパク質の分解が必要であるという考えには、あまり活動をしない金持ちに比べて労働者はタンパク質を少ししか摂取しないことも、もう一つの難題であった。イギリスの医師であり生理学者であったスミス(Edward Smith)は囚人の福祉に興味を持ち、足踏み車(treadmill)労働に注目した。8時間の労働とそれに続く時間の24時間、および休日24時間の尿素排泄を測定したが、差はなかった(31)(図 2)。この結果は、エネルギーはすべてタンパク質の分解に由来し、これにより尿素が作られる、としたリービッヒの見解と矛盾するものであった。
エネルギーの保存(目次へ)
この話の次の段階は、エネルギー保存法則に関する基本的研究の一部をなすものである。この研究の進歩は誰か一人に帰させることはできないが、余暇にこの研究をしていた若いイギリス人、ジュール(James Joul)は、熱の仕事当量の正しい値を最初に提出した。この値は熱の発生と関連してヒトの筋運動の能率を計算するのに用いられた。囚人の尿素排泄についての研究で言及した上記のスミスは、種々の条件で二酸化炭素を測定できる携帯用の装置を開発していて、囚人用の足踏み車で働いたときの自己の二酸化炭素排出の増加分を測定し、ヘルムホルツ(Hermann Helmholtz)はこれを使ってヒトの "エンジンは約25%の能率で働く" (33)とした。
タンパク質だけが筋運動の唯一の燃料であるとするリービッヒの考えを検証するために、スイスの2人の研究者、生理学者のフィック(Adolf Fick)と化学者のウィスリツェーヌス(Johannes Wislicenus)は決定的な実験を行った。彼らは頂上まで登る比較的に楽な路があり頂上にホテルがあるスイスの山の麓に行った。彼らは登山前および最中には低窒素の食事をし、登山の最中および後6時間の尿を採取した(34)。排泄尿を分析してふつう使う換算係数 "N x 6.25" を使って計算すると、尿中の窒素量は平均で35.0gのタンパク質に相当するものであった。彼らはこのタンパク質燃焼により得られるエネルギーを計算したが、炭素と水素が燃えるときのエネルギー値しか得られず、これは1グラムのタンパク質あたり6.73kcalの高い値であった。この値を使っても、得られるエネルギーは彼らが登山において重力に抗して行った仕事よりも少なかった。
同じ頃、フィックの義理の兄弟であるイギリスのフランクランド(Edward Frankland)は食物や尿素の燃焼熱を直接に測定する方法を開発していた。排泄される尿素に残っている総エネルギーを差し引くことにより、彼はタンパク質について4.73kcal/gの値を得た。この係数を使うと、代謝されたタンパク質の平均量(35g)から得られるエネルギーは153kcalであった。熱の機械的仕事当量をkcalあたり423 "kg・重力に抗してのm" とすると、153kcalから得られる機械的仕事は64,700kg・mとなる。
登山にさいして、重さの平均が71kgの2人は重力に抗して1956m登っているので、一人あたり最低138,900 kg・mの仕事をした(表 2)。この値は体タンパク質が分解して得られるエネルギーの2倍以上であり、筋が100%の能率で働き、心臓その他の仕事を無視しても、消費された燃料の大部分はタンパク質以外すなわち脂肪または炭水化物、または両者であるに違いなかった(35)。フランクランドは、筋は仕事にさいして自分自身を消費することはなく、全く他の燃料を使って無傷のままでいる点で蒸気機関と似ている、とした。
表 2 FickとWislicenusの登山における、仕事量と代謝エネルギーの関係(34)
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リービッヒおよび弟子たちはイヌを使って同じような結果を得たが、彼は上記の結論を受け入れるのを好まなかった。生体は試験管内(in vitro)の反応よりも大量のエネルギーを得ることができるとか、タンパク質は徐々にエネルギーを放出することができるので、休止筋は時計のゼンマイのように機械エネルギーを蓄えることができる、とか示唆することによって、受け入れを避けた(36)。高タンパク質食事の評価が明らかになってきても、これについてドイツ人の熱狂は続いた。これは次の章に述べる。
消化(目次へ)
いま取り扱っている時期にアメリカでは、ほとんど栄養学についてのオリジナルの研究がなされなかった。しかし、2人の名前は覚えている必要がある。一人は21歳に結核で悲劇的に死んだ医学生のヤング(John Young)である。彼は1803年のMD論文に消化についての多数の実験を記載している。彼は胃から逆流した内容が酢酸発酵をしていないことを発見した。これはその当時の考えに反していた。彼は袋詰めの食品をカエル、ヘビ、トリの胃で消化させる経過を追って、肉食動物は少なくとも植物性食品を溶解することができるし、逆に菜食動物も動物性食品を溶解できることを示した(37)。
20年ほど後にアメリカ陸軍の外科医ボーモント(William Beaumont)は先駆的な生理学者になる機会を得た。遠隔地の交易場で若い男が誤って胃に銃創を受けて永久的な瘻管が形成され、これを通して食物を入れたり出したりすることが出来るようになった。この若者は貧乏だったので、ボーモントは自分の家に連れて帰って、断続的ではあったが10年にわたり研究対象とした。彼は胃液にはいつでも塩酸が含まれ、食事に反応して分泌されることを観察した。さらに、脂肪性の食事はゆっくりしか消化されないが、 "小さく分けられる" と促進されることを彼は観察した(38)。
この頃には、胃は消化の重要な場所と考えられていた。しかし、膵臓からの小腸への分泌は胆汁の乳化作用とともに脂肪をグリセロールと脂肪酸に消化し吸収するのに重要なことを、1850年にベルナール(Claud Bernard)は発見した(39)。このこと、および次章で述べる小腸におけるタンパク質分解活性の発見によって、純粋に胃による消化はあまり重要で無くなった。
壊血病およびその他の疾患(目次へ)
ロンドンのキングズ・カレッジの内科教授バッド(George Budd)は、1842年に"栄養不足による疾患"と題する記念すべき講演を行った。次は彼の講演の冒頭の一部である。"生理学者およびもっと現実的には医師にとって、.....栄養不足による疾患以上に重要なものは無い。.......疑いも無くこれらの疾患はしばしばこの大都市の極貧の人たちによって示されるが、........それが起きる環境を我々が熟知していないので、真の原因を知ることができない。船、軍隊、刑務所、保護施設などで......多数が一つの病気に罹ると、我々の注意は喚起され、彼らの環境における異常を考えることによって、その原因を見つけることができる" (40)。
1785年より前に体系的な栄養学の研究は行われなかったとこの章の始めに書いたが、これには一つだけ例外があった。この例外についてこれから述べる。これは壊血病の種々の治療法について、対照を置いた先駆的な臨床研究であり、1746年にリンド(James Lind)が航海中の水兵に行ったものである。リンドは船乗り組みの30歳のイギリス海軍外科医であり、大学教育の経験は無かったが、壊血病の問題に特別な興味を持っていた。彼は壊血病の病状が同じ程度の12人の水兵を選び、2人組に分け、2週間にわたって、この病気に効果があると言われている治療法をそれぞれの2人組に行った。この詳細については他の論文(41,42)に譲るとして、現代の読者にとって顕著なことだけを挙げると、レモンとオレンジを与えられた2人組は6日後にほとんど回復したが、希硫酸や酢を与えられた組は2週間しても良い結果が得られなかった。
リンドの研究は、しばしば柑橘類が壊血病の治療や予防への有効性を示したこととして記載されている。実際を言うと、これは約200年も前から知られていたが、実行できていなかった。オレンジとレモンも果汁も冷蔵技術が発達する前には、カビが生えるので長期の航海のあいだ保存することができなかった。このためにロンドンのカレジ・オブ・フィジシャンズでは他の種類の酸を代わりにする理論付けをしていた。壊血病は "腐敗" 病であり、動物組織は腐敗するとアルカリ性になると考えられていた。柑橘類のジュースはその酸性によって治療効果を持っているので、硫酸(使用前に薄める!)や酢のような安定な酸も同じ効果を持っている筈であると考えた。その結果、船に乗り組んでいる外科医は古くから硫酸を供給されていたが、学問的にその効果は検討されていなかった。
リンドは大学教育を受けて医師となった後の1753年に、彼は壊血病についての論文に次のように書いた。"イギリス海峡艦隊は長年にわたって硫酸(vitriol)を配給されてきた。それにもかかわらず、しばしば千人ほどが哀れなことにこの病気にやられてきた......。医学(physic)の理屈からは.....極端まで行うことが絶対に必要であるが、いったい役に立っているのか害になっているか判らない" と(43)。
もしも他の酸がレモンジュースの代わりにはならず、レモンやそのジュースが長期間の航海に持参するのに不安定すぎるとしたら、どうすれば良いか。リンド自身は浅いボールに入れて沸騰水の上でゆっくりと濃縮して濃いシロップ(彼はロブと呼んだ)にすることを考えた。これを試みたが、実際は役に立たなかった。もっと効果があり、水兵たちが好んだのは、ラム酒またはブランデーをジュースと一定の割合に混ぜたものであった。他の方法はジュースからクエン酸を抽出して艦隊に配給することであった。不幸なことに、多くの著者たちはクエン酸がその活性成分と考え、実際はレモンジュースを与えたのに "クエン酸を与えた" と記載した。ある場合はこのことが明らかであったが、ある場合は明らかでなかった。何年も不明確な状態が続いたが、真の純粋なクエン酸は抗壊血病効果を持たないことがついに合意された(44)。
リンドは、皮膚にある汗の穴は海の空気によって詰まるので毒は外に出ることができなくなって貯まると考え、柑橘類の果物は "石鹸のように希薄化し分解する作用" (洗剤作用)を持っているので穴の通りを良くすると信じていた。彼は壊血病は陸では起きず、水夫たちのように抗壊血病物質を必要としないと信じていた。しかし、そうでは無かった。イギリスの刑務所で時によって20回ほども壊血病が発生していたことは1848年までに明らかになった。囚人たちの病状は海上とまったく同じであった。このような発生を説明できる共通の要因は、発生のしばらく前に食事からジャガイモが除かれていたことであった。ジャガイモを元に戻すと、病気は消え去った(45)。
抗壊血病物質としてのジャガイモの重要性は、1845年から1848年の間に確認された。これはカビによってヨーロッパにおいてジャガイモの不作が続いた年であった。ジャガイモを主要なエネルギー源としていたアイルランドでは、悲惨な飢餓によって予期される壊血病を覆い隠されていた。イギリスでは穀類の収穫があったので全体的にエネルギー不足は無かったが、何回にもわたって壊血病が発生し、今回は刑務所だけでなく一般住民にも見られた。スコットランドの刑務所における深刻な壊血病の発生についてはすでに記載した。これは、タンパク質が "真の栄養物" であり、したがってもしも食事の質が悪いならば、タンパク質の不足であると信じたリービッヒの信者と関連させて述べた。実際的な面から言うと、ジャガイモも果物も得られないときに、緑食野菜は有効な抗壊血病物質であった。
供給の面から食物供給に制限があるときには、いつも陸地壊血病が問題となり続けた。たとえばカリフォルニア・ゴールドラッシュのときの鉱山師、クリミア戦争のときの兵隊、アメリカ南北戦争のときの捕虜、1871年のパリ包囲のときの一般市民(46)がその例である。いずれの場合にも、新鮮な野菜または果汁が再び得られるようになると問題は解決した。
北極壊血病(目次へ)
19世紀が進むと船の旅が速くなり、港で新鮮な食べ物を得る機会が無いような長い航海は稀になり、それとともに海の壊血病も稀になった。しかし、北極探検はこの一般化の例外であった。1875年に英国海軍はそれまで探検家が到達したよりさらに北の探検を行った。海軍は壊血病は問題ではないと考えていた。ナポレオン戦争のときにフランスの港を封鎖し長い期間にわたって海上に留まることができた。これはシシリー島からの組織的なレモンの供給によるものであった。上層部は西インドからのライムを使うことにした。これはレモンより酸っぱいので抗壊血病性は強いはずと考えたからである。イギリス本国でアルコールを加えて瓶詰めにした。
2艘は122人を乗せて1875年5月に出航し、北緯82度の氷中で冬を越し、翌春にソリで探検に出発した。6月までに60人が壊血病にかかり、4人が死亡し、船は帰ることになった。これは大きなスキャンダルとなり、詳しい調査が行われた。乗員の毎日の配給食には4オンスの "保存野菜" 、1オンスのピックルズ、1オンスのライムジュースが含まれていた。ある批評家は、リービッヒが生理学を新しい科学として抗壊血病物質理論は致命的な打撃を受けた、と述べた。他の人たちはエスキモーは極北の地で果物や新鮮な野菜が無くても健康なのは何故か調べなければならないと主張した(47)。次章に見るようにこの問題によって新しい理論が採用され、かなりの間にわたって探検家たちは誤った方向に導かれ、知識は少なくとも20年も昔に戻ることになった。
長い航海で出会うもう一つの問題は夜盲症であった。これは時には壊血病とともに起きることもあった。船の外科医たちは夜盲症を壊血病進行の初期症状と考え、両者は食事に新鮮な緑色野菜を加えるのが有効であると考えていた。しかし、多くの人はこれらは別の疾患であると考えた。それは両者が必ずしも一緒に出現しないし、夜盲症ではしばしば角膜に潰瘍を生じたからである(48)。
19世紀の初頭にこの病気を魚油またはタラ肝油で治療に成功したという報告が何人かの医師によってなされた(49,50)。また、このような眼疾患の患者にいずれかの動物の肝臓を調理して与えるという古くからの民間療法があった。この方法は1950年代におけるオーストリー海軍の世界一周航海において試された。喜望峰からジブラルタールへの長期にわたる航海で350人の乗組員のうち60人が夜盲症になった。前から機会があれば治験をするように言われてきた船乗り組み外科医は、ジブラルタールでウシの肝臓を得て、60人全員に与え、結果は "真に奇跡" であったと報告した(51)。しかし彼は医学誌で "栄養の病気であると言うのは不真面目な結論であり、この問題についての文献を知らない人間の自己顕示欲である" と攻撃された。
ビトー(P.Bitot)は角膜の斑点(訳注:ビトー斑)で名を残し、夜盲症と関係あることを示したフランスの医師であるが、彼は食事によってこの病気の患者を治すことができることは述べず、この病気は本質的に "純粋な生命力に関係するもの、または神経性のもの" と1863年に記載した(52)。
1881年にイギリスの医師はタラ肝油を与えた患者でこの状態が良くなったと報告し、患者は "ある種の緊張(tone)または栄養の欠乏による" 可能性を示唆した。しかし、これは未だ一般的に確立された結論ではなかった(53)。孤児院の医療に責任を持っているあるドイツの医師は、孤児院でこの病気を診察し、子供たちは良い食事を与えられているから、この病気は感染の結果に違いない、と1884年に述べている(54)。
甲状腺腫とクレチン病(目次へ)
頚の前部の腫れである甲状腺腫(goiter)は、千年にわたり特定の地域で知られてきた。この地域では少数の新生児がクレチン病患者として産まれ、発育が阻害され知能が低かった。甲状腺腫患者にとって乾燥した海藻や海綿、または燃やして得た灰を与えるのが古くからの民間療法であった。1812年にこのような灰からヨウ素が得られ、フランスの化学者は甲状腺腫の治療に使うことを示唆した。しかし与える量によっては有毒なことがしばしば見つかり、この治療法はふつう使われなくなった(55)。この章の関連する最後の時期に、ヒルシュ(Hirsch)は広範囲にわたる学問的な総説の中で、ヨウ素欠乏説は "短命な学説であり、...風土病の甲状腺腫やクレチン病は感染症に属すると考えるべきである" と述べている(56)。
極地壊血病、夜盲症、甲状腺腫の例が示すように、ますます多くの病気が直接的に微生物による感染または間接的に微生物の毒素生産能力によって、説明されるようになってきた。疑いも無く病気の微生物説は人間を苦難から救うのに莫大な貢献をしたが、少なくともある時期には他の種類の疾病について、確定された事実を老婆の繰り言として取り扱ってきた。バッド教授の講演を再び引用する。"多数の人たちは....量的にも種類の上からも不足な食事を摂取し...不思議な種類の病気が起きる。....その原因は明らかになり、治療が行われるが .... その教訓は忘れられ ....栄養の重要性についての大量で重要な知識は、短期間の後に異なる地域における、大規模な病気の経験によって大金を払って購入される" と(57)。
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(訳者 水上茂樹)
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