西南女学院大学

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3: 無機鉄はヘモグロビン合成に利用できる

The Journal of Nutrition Vol. 127 No. 5 May 1997, pp. 1017S-1053S
Paper 3: Inorganic Iron Can Be Used to Build Hemoglobin (Stockman, 1893)
Richard A. Ahrens, Department of Nutrition and Food Science, College of Agriculture and Natural Resources, University of Maryland, College Park, MD

リンク:栄養学の考え方を変えさせた実験 (原論文)


(若い女性の)貧血状態はランゲ (Johannes Lange) によって処女病 (morubus virgineus) と呼ばれた (Lange 1554)。ランゲはレムベルグの医師でライプツィヒ大学の学長であった。彼はこの病気を処女に特有なものであり、月経血の貯留によると考えていた。彼の治療法はこの病気にかかっている処女にできるだけ早く結婚するように勧めることであった。彼は自著”De Morbis Virginum" (処女病について) でヒポクラテスに劣らない権威者として、この病気の治療法として結婚を勧めた。

ヴェランダルはこの病気を”chlorosis” (萎黄病) と改名した (Varandal 1615)。ふつうに使われる英語名は”green sickness" であり、血液にヘモグロビンが少ないときに白人の皮膚が緑色を帯びることによっていた。萎黄病は間もなく内科学教科書で女性の病気の中心となった。萎黄病は処女の特徴であったので、ヨーロッパの画家はこの時代に若い女性を緑色を帯びて描いた。実際はともかくとして萎黄病は芸術において蔓延した病気であった。 

19世紀半ばまで、萎黄病は多くの医師たちによって神経症およびヒステリーと関係する症状と考えられた (Bullough and Voght 1973)。萎黄病は神経症の一つの形になった。萎黄病についてのこの視点は食事療法にとって障碍となった。これは貧血が女子の処女性によるとする考えの改良であるが、セックス・バイアスを永続させるものであった。Bullough と Voght (1973) は女性の要求にたいする反応として19世紀後半にセックス・バイアスが盛んになったことを指摘した。女性の要求とは、女子教育、政治の男女平等、女性の地位についての男性のステレオタイプを除くこと、であった。開業医のほとんどすべては男性であり、多くは男性-女性関係の体制 (status quo) の変化に対して冷淡であった。19世紀の始めには女性の入学を認めた医科大学でも、志願者が女性であることだけで不合格にし始めた。女性に残された選択として、看護学校の数は急増した。19世紀の末期に萎黄病はきわめて普通の診断名となった。この病気の原因として栄養欠乏を受け入れることにたいする抵抗を理解するには、この歴史的な状況を知らなければならない。

フランスのブロー (Pierre Blaud) は萎黄病の治療に硫酸鉄(II) を含む錠剤の利用を勧めた (Blaud 1832)。平均的な服用量は毎日約150 mgで、かなり成功した。しかし、この成功にもかかわらず、萎黄病を単なる鉄不足と考えるにはかなりの抵抗があった。乗り越えなければならない第一の障碍は、上に述べた萎黄病を女性の神経症と結びつけているセックス・バイアスであった。しかし、もう一つの乗り越えなければならなかった障碍は、無機鉄が胃腸管から吸収されることを示すための出納試験を研究者ができなかったことであった。クレツィンスキー (V.Kletzinsky) は一連の実験を行った (Kletzinsky 1854)。彼のすべての研究において、糞に回収された鉄の量は摂取した鉄の量にほとんど等しかった。乗り越えるべき3番目の問題は、イヌに硫酸鉄(II) を静脈注射をしたときの毒性であった。

1880年代にブンゲ (Gustav von Bunge) は影響力の大きい2論文を書いた。これに彼は有機起源の鉄だけが萎黄病治療に効果があると書いた (Bunge 1885, 1889)。ブンゲの鉄についての興味は1874年に血液とミルクを分析し、鉄は血液に豊富であったがミルクに殆ど含まれない結果を得て以来のことであった。ヒトは必須栄養素を食品から摂取するのが最良である、という哲学をかれは展開した。これは鉄にも適用された。ブンゲから引用しよう。”なぜ患者は鉄を薬局から買って、マーケットでふつうの食品と一緒に買わないのだろうか?” これは今日でも信者が少なくない哲学である。ブンゲは彼の信じていることを実行しているあいだに個人的な改革運動となった。”医師がヘモグロビンを作らせるために萎黄病患者に与えている鉄はまったく吸収されない”、と。

ブンゲは改革運動に入ると鉄治療が有効なのは暗示によると主張した。結局、萎黄病の患者の大部分は女性であり、神経的や心的な障害があることが多いのはよく知られていた。従ってきわめて暗示を受け易いと彼は感じていた。ブンゲによると、若い女性に菜食主義を薦めるのは本当の悪者であった。彼は生涯の残りを菜食主義の反対に捧げ、ヒトの食事における肉の栄養価について熱中した。アメリカで禁酒法が”尊い実験”として行われ始めた1920年に彼は死亡した。彼は生涯を通じて飲酒にたいする情け容赦のない敵であり、アメリカ市民をモルモットにした実験に期待していた。彼は禁酒法によってアメリカ社会のモデルが出来上がり、ヨーロッパもすぐにこの例に倣うことを予想していた (McCay 1953)。彼がこの特別な実験の結果を生きて見ることができなかったのは幸福であった。

ブンゲは萎黄病にたいする無機食事鉄が有効なのを暗示によると悪口を言わないときに第二の説明を行った。Bullough と Voght (1973) はこのような矛盾は19世紀後半に”婦人病”の研究者に共通なものであった、と述べている。彼はKletzinskyの理論 (1854)を採用し、患者が萎黄病になるのは胃腸管細菌が硫化水素を作ることによるのであり、これは摂取した有機鉄と結合して不溶性の硫化鉄にするとした。もしも不溶性の硫化物を作る金属の無機塩をサプレメントとして大量に投与すると、これは硫化水素の大部分を取り上げて、有機鉄は容易に吸収されるようになるに違いない、とした。

図. 1. 萎黄病患者におけるヘモグロビン量
:y-軸の%は1893年当時のヘモグロビンの臨床標準に基づく。硫化鉄 (ケラチンカプセル入り, 550 mg/日), クエン酸(皮下注射, 32 mg/日) ,酸化ビスマス (9.6 g)。最初と最後の観察間:硫化鉄 12日、クエン酸鉄 10日、 酸化ビスマス 9日。
Stockman (1893)のデータから作成



エディンバラ大学医学部のストックマン (Ralph Stockman) はクレツィンスキーの理論、したがってブンゲの理論を試験した (Stockman 1893)。彼は萎黄病の患者で無機鉄が直接に効くのか硫化水素に結合するので効くかを確かめた。彼の結果は図 1に示す。彼は3人の若い萎黄病患者にクエン酸鉄を32mg与えて10日間に正常ヘモグロビンが44%から52%まで上昇した。24日後には患者たちのヘモグロビンは正常の72%になった。ストックマンは続いて他の4人に毎日550 mgの鉄を硫化鉄の形で鉄が小腸で遊離するようにケラチンカプセルに入れて経口的に与えた。この形の鉄はさらに硫化水素と結合することは考えられなかった。しかし、12日でヘモグロビンは正常の48%から60%に上昇した。33日後に血液ヘモグロビン濃度は正常の84%になった。彼はまた血液ヘモグロビン濃度が正常の55%である萎黄病患者に毎日9.6 gの酸化ビスマスを与えたが9日後にヘモグロビンレベルは正常の54%であった。酸化マンガンも同じような結果を与えた。これら最後の2つの物質は腸の硫化水素を除く効果が強いものであったが、萎黄病の治療に効果は無かった。

ブンゲの仮説にたいするストックマンの1893年における上品な反論は、無機鉄が栄養素として大きな価値のあることを明らかにした。2年後に Stockman (1895) は別の論文で、若い女性たちの萎黄病は食品とくに肉をあまり摂取しないことによるもので、この時期に成長および月経のために必要な鉄の摂取が充分でないことによって説明できるとした。彼はデンプンで影響されにくい特異的な食品鉄分析法を使って、貧血女性の食事はとくに鉄が少ないことを示した。鉄が少ない理由の一部は食物を少ししか摂らず、大部分がパンだったことによるものであった。

しかし、この当時にブンゲにたいする評価はストックマンにたいする評価よりかなり高かった。Carpenter (1990) が指摘したように、貧血にたいする無機鉄の治療効果を疑う貧弱な実験は1920年代を通じて行われた。ブンゲは1920年に死亡し、萎黄病の古い考えはかなり前から無くなっていた (Fowler 1936)。しかし、適当量の鉄を摂取する対策は今でも必要である。アメリカではふつう白パンや多くの朝食シーリアルは無機鉄で強化されており、妊娠女性は鉄サプレメントを摂るように勧められている。第三世界とくに鉤虫によって血液を失っている地域では、鉄欠乏貧血は重要な問題になっている。

文献

Blaud P. Sur les maladies chlorotiques et sur un mode de traitment specifique dans ces affections. Rev. Med. Franc. Etrang. 1832; 1:337-367
Bullough V., Voght M. Women, menstruation and nineteenth-century medicine. Bull. Hist. Med. 1973; 47:66-82
Bunge G. Über die Assimilation des Eisens. Hoppe-Seyler Z. Physiol. Chem. 1885; 9:49-59
Bunge G. Über die Aufnahme des Eisens in den Organismus des Sauglings. Z. Physiol. Chem. 1889; 13:399-406
Carpenter K. J. The history of a controversy over the role of inorganic iron in the treatment of anemia. J. Nutr. 1990; 120:141-147
Clark A. Observations on the anaemia or chlorosis of girls, occurring more commonly between the advent of menstruation and the consummation of womanhood. Lancet 1887; 2:1003-1005
Fowler W. M. Chlorosisan obituary. Ann. Med. Hist. 1936; 8:168-177
Kletzinsky V. Ein Kritischer Beitrag des Chemiatrie des Eisens. Z. Gellschaft. Aerzte Wien 1854; 2:281-289
Lange, J. (1554) Medicinalium Epistolarum Miscellanea, pp. 74-77. Basel, Switzerland.
McCay C. M. Gustav B. Von Bunge. J. Nutr. 1953; 49:2-19
Stockman, R. (1893) The treatment of chlorosis by iron and some other drugs. Br. Med. J. I: 881-885, 942-944.
Stockman R. On the amount of iron in ordinary dietaries and in some articles of food. J. Physiol. 1895; 18:484-489
Varandal, J. (1615) De Morbis et Affectibus Mulierum Libri Tres. Lyons, France.

(訳者 水上茂樹)

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